浩さんの思い出

真の共産主義者

伊藤 律

労働運動研究 19845月 No.176

 

 釧路の獄を出て

 長谷川浩さんが六年もの非転向獄中闘争を終り、三鷹村の家に帰ったのは、一九三六年であった。その直後、彼が急逝まで仕事をしていたあの書斎で初対面した。頬や手にも、厳寒の釧路の獄での凍傷の痕が紫色に残っていた。相手を英気で圧倒せず、理論と気概で燃え立たせるその態度に、深く感銘した。半日話し合った結果、職場細胞から共産党再建の方針が定まった。

初対面でも、つながりは約五年前に遡る。当時彼の弟と私は、旧制一高の共産主義青年同盟再建を始めた。すでに転向の濁流が広がる中で、一高先輩に非転向党幹部が二人いた。志賀義雄と長谷川浩。われわれ後輩の尊敬の的であった。その頃大和村辺にあった家をも訪れ、浩さんの獄中動静を逐一聞いた。

 地下潜入後、一九三三年逮捕され、豊多摩監獄の未決監「八舎」へ送られた。その頃浩さんもここにいた。弟が、彼の宅下げした本を私に差入れてくれる。時には剥ぎ残ったレッテルに、長谷川浩の名が読みとれる。胸をおどらせた。この縁故があったから、初対面でも旧知のように話が進んだ。

 共産党再建のために

 まもなく昔産労の「少年」、岡部隆司と連絡がつく。岡部は優れた理論家で、コミンテルンとも関連があったのだ。未熟な後輩の私を加え、三人で情勢と任務を反復討論した。コミンテルン第七回大会の反ファッショ統一戦線方針、岡野・田中「日本の共産主義者への手紙」をさらに一歩深め、方針を立てた。党は在来帝国議会を、絶対主義天皇制の飾物と否定してきた。が当面の情勢に鑑み、そこにわずかでも残る自由民権運動の遺産を擁護、斉藤議員の軍部批判に代表される自由主義ブルジョアを含む広範な人民統一戦線を提起した。

 三七年夏、近衛内閣は中国侵略の宣戦を布告。一二月「人民戦線」弾圧で社民勢力をも壊滅。天皇制ファシズムの嵐が吹きすさぶ。戦争を批判しただけで「国賊」と罵られ、投獄される。進歩分子.殊に非転向者への圧力は日に強まる。だが浩さんは「オレは天衣無縫で往く」と、昂然嵐に立ち向った。

 過去党壊滅の教訓を汲み、大経営に組織の根を下ろす活動に努力を集中した。浩さんは三菱重工、国鉄、東交なぞの職場闘争と組織を直接指導。全員協力、農民、市民、学生、文化の諸運動とも連係。さらに秘密印刷機関を創設、文書を発行。その筆者は浩さん。

 嵐をさけ、密室の革命論議に耽ける傾向を厳に自戒した。困難と障害を克服、大経営細胞建設のため、誰よりも浩さんは奮闘した。当時地下グループが他にもあった。関西の春日庄次郎中心の共産主義者同盟は「武漢三鎮を守れ」と主張。われわれは大衆の意識程度に応じ、戦争の苦難に喘ぐ大衆を行動に立たせるため「即時停戦、平和を」掲げた。その他、神山茂夫中心の旧刷同組、山代ら京浜グループもあった。だが皆、街頭組織の域を未だ出ない故、連係を差控えているうち、悉く摘発された。

 天皇制権力は労組、農組その他大衆組織をも次々に圧殺。特高指揮下の産業報国会への組替えが強行されてゆく。旧党員学者すら、産報への「潜り込み」戦術を提唱する。われわれはこれを批判、あくまで労働者の団結権を守る闘争を堅持した。殆んどの労組が解散を余儀なくされ、東京交通労組が、最後の砦として残った。当局に迫られた労組幹部は一九四〇年春、中央執行委員会を開き、労組の産報への改組「見切り発車」を企てた。婦人部と青年部の大衆は、大会を頑強に要求して闘う。あげく拡大中執委会議となった。労組解体止むなしの大多数意見に対し、婦人部長は検挙覚悟で、立って断固労組を守れと主張した。侵略戦争とファシズムの嵐に抗した労働者階級の最後の組織的戦闘であった。身をもってこの闘争を指導したのが、浩さん。

 間もなく岡部、長谷川その他も逮捕。他の諸グループも弾圧。かくて敗戦まで、党は遂に立ち上りえなかった。浩さんはそれからまた約六年、獄中に陣吟した。

 戦後労働者進撃の先頭に

 一九四五年一○月、浩さんは出獄するや工場へ走った。労働者の闘争に身を投じ、その創意と経験を虚心に学び、その総括から前進の道の探求に努力した。徳田・志賀「人民に訴う」に、始まり、第四回大会の「人民管理、労働者の手による産業復興」の方針は、社会主義への道を提示した怒濤の如き労働者闘争の創意の総括であった。全国を席捲した生産管理闘争の燥火となったのは読売争議である。これは同社の鈴木東民ら進歩分子が昼休みごとに、佐和慶太郎主宰の人民社の焼ビルでの集合、協議に始まる。高野実もここの常連だった。党は労組、農民組織、大衆団体の再建につき統一戦線を志向した。そのためこの縁で、高野・長谷川会談が内密に行われた。二人の意見はほぼ一致した。が、同席した袴田里見が戦前の赤色労組方針を譲らないため、会談は実を結ばなかった。戦後労働戦線も出発点から、産別、総同盟にわかれてしまった。

 だが職場労働者の切実な要求は同一であることを、浩さんは誰よりも強調した。職場闘争の発展につれ、共同闘争を通じ工場代表者会議が拡がり、関東労協に結集された。ポツダム宣言に抵抗する幣原官僚内閣は、食糧、職、家、生活品の極度欠乏に苦しむ入民大衆の憎悪の的となる。自由、社会、共同、共産で、内閣打倒四党委員会が結成され、政府を総辞職に追い込んだ。その力量は大衆の激烈な闘争と広大な統一行動である。それは関東労協を中心に関東農民協、市民の食糧よこせ団体を結集した関東食糧民主協議会を主軸として展開された。この基礎の上に、戦後初の統一メーデーが、続いて食糧メーデーが盛り上る。吉田茂が一旦組閣を諦めたほど、労働者を先頭とする人民大衆の革命の波は全国に高まった。

 第一次吉田内閣の成立は、連合軍による上からの民主改革の終焉を意味した。アメリカは天皇の戦犯を免除、労働者の生産管理を禁止、独占資本支持にまわり、鉾先を人民大衆に転じた。爆発した日本人民の民主革命と、上からの民主化を狙う連合国軍との〃束の間の蜜月〃は終った。それは民主化の主導権を誰が握るかの激烈な闘いの時期であった。その勝敗は日本敗戦の時すでに決着していたのだ。土地改革を含むこの時点でわが国階級関係は完全かつ根本的に変化した。革命の性格は社会主義へと進展した。 〃密月〃の破綻は米日反動派協力関係の出発点、やがて帝国主義軍事同盟に発展する。

 米占領軍は労働者が社会主義へ半歩でも踏み出すのを決して許さない。すでに四月六目首相官邸包囲の大デモは占領軍との最初の衝突となる。徳田書記長と長谷川はその先頭に立った。GHQはこれを「暴民デモ」と禁止。だが労働者階級は米日反動派の合作攻撃を果敢に迎撃した。国鉄、海員の闘争から産別の十月攻勢を経て、全官公庁中心の共闘六百万人の二・一ゼネストへと突進する。全官公労を軸に産別、総同盟を含む殆んど全国の労組参加の「全闘」が結成される。さらにこれに日農その他社会党左、中間派と党を加え、倒閣実行委員会が発足する。全国に赤旗が翻り、騒然とした革命気運が国中にみなぎった。占領軍はついに、総司令官命令をもって禁止。労働者階級が議会民主を乗り越え、社会主義へ踏み出そうとしたこの歴史的闘争は、悲痛にも挫折した。アメリカ帝国主義は日本人民にキバを剥き出したのだ。

 占領下の反撃と最後の決戦 党の戦略不明確とゼネスト挫折にもかかわらず、労働者階級は不屈であった。党は挫折の教訓を汲み、経営細胞強化に依拠、職場闘争に基づく地域人民闘争戦術をたてた。その提起者はやはり徳田と長谷川。武装した権力、占領軍と政府に対決しうる革命への道である。この党生活刷新は大衆の信頼を高め、四九年一月の総選挙で、党は三六の衆議院議席をかち取った。大衆はこの方針の下、反撃に立ち上った。全逓労働者は職階制賃金に反対、占領軍の干渉に抗し、全国を東西に二分、交互のストを打ち、最低要求を獲得。官公労組のスト権を剥奪する政令二〇一号に反対、国鉄二機関区で一斉職揚放棄、民族独立行動隊が全国を駆ける。

東宝砧閉鎖に反対、全従業員が撮影所を占拠、遂に戦車の出動となる。四九年に入ると、都公安条例反対の大衆デモが機動隊と激闘、東交の橋本金二が虐殺される。これに抗議する政治ストが決行される。十万人猷首に反対した国鉄労働者はスト、人民電車運行で闘う。東芝では企業整備と対決、生産管理或は地域ぐるみの産業防衛闘争を組織した。日鋼広島の闘争を支援した殆んど全県労働者は、占領軍の干渉に抗議、ストとデモを敢行。その他各地で激烈な反撃が展開された。

 しかし下山、三鷹、松川の謀略弾圧のもとで、国鉄・全逓十数万人の大量馘首に続き、一連の大企業整備が強行されてしまう。労働者大衆の壮烈な反撃は敗北に終った。敗北したとはいえ、これまた歴史に残るこの反撃闘争の前線指導者は二ニスト同様、浩さんだった。

 この反撃と翌五〇年の階級決戦は、重大な意味をもつ。米日反動派は戦後労働者が闘い取った諸権利と成果を悉く剥奪し、独占資本の復興と帝国主義復活を急いだ。そして米帝国主義が中国人民革命を圧殺、ソ連への突撃路を拓くため、朝鮮戦争の前進基地日本の地馴らしであった。レッドパージ先進分子の追放、労組の骨抜きと右傾化が襲いかかる。労働者はこれに抗し、生活と権利を守る決戦に立ち上った。まず八幡製鉄労働者が二〇目間のストを敢行。炭労、全鉱のスト、電産の反復電源スト、さらに全造船も参加。官公労を除く殆んど全産業の労働者が立ち上った。特筆さるべきは日立総連の三カ月に亘るスト、管理闘争、全自動車の六月三日全国統一ゼネスト提起だろう。それは全国労働者と基層党員の頑強、果敢そして決死の決闘であった。だが、この階級決戦も敗北に帰した。

遺憾にも、当時徳田は病身、長谷川は大阪駐在、労働者のこの決戦の指導に当れなかった。

 常に労働運動の最前線に

 長谷川は戦後五〇年まで、党政治局で一貫労働戦線を担任した。徳田主宰の組織活動指導部の実質的責任者は、彼であった。長谷川は殆んど党本部に座っていなかった。幹部室にも長谷川専用の机はなかった。激烈な労働争議の現揚には、殆んどと言ってよいほど、必ず頑丈な軍靴姿の彼がいた。浩さんは日々労働者と共に、文字通り寝食を忘れて闘った。歴史的な二・一ゼネスト前夜における彼の活動は正に獅子奮迅。その戦闘の雄姿は、今なお瞼にありありと浮ぶ。

 この五年間は、日本革命未曽有の高揚期であった。浩さんにとっても生涯中、最も思いざま活躍、他の時期何十年に匹敵する豊富な貢献と経験を積み、自らも急成長した時期であった。

 ニ筋の路線の闘争の中で

 労働者が生産管理と二・一ストで社会主義へ前進を求めたにも拘らず、残念にも党は革命の性格変化を的確に掴めなかった。四六年二月、五回党大会での野坂提案による大会宣言は、平和的な民主革命と規定した。この誤りは単に野坂一個のものではなかった。当時はまだ連合軍と日本人民は、民主化をめざす同床異夢の〃蜜月〃にあった。上からの改革に幻惑された小ブル思想が党内にも氾濫したのだ。が徳田はこの大会での一般報告中、組織的実力で敵を追い詰めねば平和革命は不可能と指摘。八月の中総報告では、議会主義的平和革命論は社会民主主義への屈服と強調。四七年六回党大会で、野坂政治テーゼ上程は阻止された。

 明らかに相対立する二筋の路線が党内に存在した。そして野坂理論は実質上克服された。勿論、党内矛盾と路線闘争は不可避であり、それを通じてこそ党は強化、発展する。しかし、これまた残念にも、それが確認されず、理論的に提起されず、思想根源に亘る全党討論による明白な決着が着けられなかった。その結果は五〇年問題から今日にまで尾をひいている。このため殆んどの覚員が両路線混合の誤りに陥った。のち、野坂理論を継承発展させた路線が展開される。その中で、浩さんは誤りが最も少なく、野坂帰国前の四回党大会の路線を守った稀有の幹部の一人なのだ。それは彼が常に労働者の中で闘った実践家の故である。戦後、党の再建と破竹の進展は、労農大衆の革命闘争と結合して実現した。大衆運動から遊離したお説教や文案とは無縁に再建され、発展して来た。

 浩さんは終始党が労働戦線を指導する最前線の部署を守りつづけた。

 五〇年問題と長谷川浩

 五〇年の混乱は党の宿病と矛盾の爆発だった。意見分岐が組織分裂に発展したのはなぜか? これはおざなりの責任論や規約手続論では解決できない根本問題である。

 一九四九年国鉄、全逓に始まり、全産業に亘る苛酷な合理化と大量馘首。

続く五〇年の企業大整備と「赤追放」。それへの反撃と決戦の敗北により、労働者階級は深い打撃を蒙った。党は基幹大経営における基盤を失い、大衆から浮上った。大衆闘争を共にする実践中、意見分岐を克服する基盤が極度に弱まった。しかも全労働者と基層党員が陣営の命運を賭けて決戦している時、党中央はこれを見殺すかに、論争に明け暮れしていた。党中央、国会議員、アカハタ、経営細胞への大弾圧に対してすら、大衆的抗議闘争を展開し得なかった。

 分裂を防げなかった根底がこの点にあったことを、浩さんは身を切られる思いで痛感した。

 五〇年分裂問題は、二派対立の図式で割切れるほど単純ではない。申央幹部の誰一人その責任を免れえない。だが徳田「串刺論」対宮本「全一支配」論争の決着は、歴史が既に着けた。ただ組織上の措置については、多数派の責任が当然より大きい。が政治、書記局中、最もその誤りの小さかったのは浩さんだろう。本部にいなかったせいもあろうが、主に共産主義者らしい品質による。

 浩さんは、(一)物事を極力全面的見るに努め、(二)卑劣な個人攻撃を恥とした。五〇年問題以来、多くの幹部が互に個人攻撃を事とし、大衆も組織も忘れ去った。浩さんは身命を献げた党に挟別するに際しても、誰をも罵らなかった。党綱領の根底にある「異質の思想」を鋭く批判して去った。日何より重要なのは、労働者階級に無限の信頼を寄せ、革命的熱情を傾けて献身し、その陣頭に闘いつづけた。五〇年潜行後、政治局員でありながら島流し同然、九州で苦難にみちた地下活動の五年を送る。この時期においても彼はまたそうであり、惜しみなく大衆と党に献身した。

 当時党と革命に重大な損害をもたらした極左偏向は、その実かつて国際批判を浴びた民族主義的日和見路線の根底にあった小ブル思想の裏返しであった。しかも基幹産業労働者の基盤を失った党中央の「左」への動揺であった。

浩さんは終始この極左偏向と闘った。

 浩さん 永遠に労働者階級の胸の中に生き、闘ってくれ。

 

長谷川浩略年譜

一九O(明治四〇)年 八月六日 東京市小石川区大塚仲町二九番地に生れる。父篤、母ため、九人兄妹の長男。

一九西(大正三)年 四月 入新井村立入新井尋常小学校入学。当時、東京府荏原郡入新井村不入斗に在住

一九二〇(大正九)年四月東京府立第五中学校入学。当時、小石川区林町に在住。

一九二五(大正一四)年 四月 第=局等学校入学。当時、府下北豊島郡巣鴨町上駒込に在住。

一九二六(大正一五年 秋 一高社会科学研究会に入会。

一九二八(昭和三)年四月東京帝国大学法学部に入学。同月、無産者新聞社社員、秋から荏原支局員となる。

一九二九(昭和四)年 四月 無産者新聞荏原支局責任者。十月 第二無産者新聞の関係で検挙、拘留ニカ月余、起訴猶予。

一九三〇(昭和五)年三月第二無新本社勤務に移る。八月 第二無新責任者となる。日本共産党に入党。

一九三一(昭和六)年 三月三十一日 検挙、警察から豊多摩拘置所へ。

一九三三(昭和八)年 十二月 裁判確定、治安維持法違反で懲役四年、釧路刑務所に服役。

一九三六(昭和二)年六月釧路刑務所を出所。

一九三七(昭和三)年九月岡部隆司、 伊藤律らとともに目本共産党再建準備委員会を組織、反ファッショ人民戦線の路線で反軍闘争、反産報闘争をすすめる。十一月 仙波信三郎の金剛機械に入社。(砲弾製作)

一九三八(昭和三)年 十二月八日 長沢八重子と結婚。

一九四〇(昭和一五)年 六月二十入日 検挙、日本共産党再建準備委員会壊滅。七月十二日 長男洗生れる。

一九四二(昭和一七)年 保釈出所。

一九四三(昭和一八)年 九月 治安維持法違反で懲役六年が確定、下獄。横浜刑務所で服役。

一九四五(昭和二〇)年 十月六目 横浜刑務所から解放される。ただちに日本共産党に復帰、戦後の再建運動に参加、東京都で労働運動に入る

一九四六(昭和二一)年 一月 関東労協(工代会議)を組織。二月 日本共産党第五回大会で中央委員に選出。八月 産別会議組織。共産党政治局員となる。

一九四七(昭和ニニ)年 一月 二・一スト指導。

一九四八(昭和)年 三月 全逓三月闘争指導。

一九四九(昭和二四)年 三月 政治局員として関西常駐となる。

一九五〇(昭和二五)年一月京都市長選挙、京都府知事選挙を指導。六月団体等規制令による公職追放。地下に潜行し、中国地方に派遣される。八月 帰京。

一九五一(昭和二六)年 二月 共産党第四回全国協議会に出席、九州派遣常.駐となる。十月 共産党第五回全国協議会に出席。

一九五五(昭和三〇)年 四月 福岡で潜行中を検挙されたが、直後に団体等規制令廃棄で釈放。七月 共産党第六回全国協議会、中央委員を辞任する。

一九六〇(昭和三五)年  六月 党青年学生部長として安保闘争を闘う。ハガチー来目抗議の羽田空港デモを指揮。暴力行為、不法監禁、威力業務妨害などの罪名で懲役一年、執行猶予三年。

一九六一(昭和三六)年 八月 共産党の綱領草案に反対し、新しい大衆的前衛党の結成をめざして離党、社会主義革新運動に参加、全国委員となる。

一九六七(昭和四二)年 二月 共産主義者の結集と統一をめざす共産主義労働者党に参加。

一九六九(昭和四四)年 五月 共労党第三回大会で極左方針に反対し、労働者党全国連絡会議結成、全国委員。九月 労働運動研究所の創立に参加、代表理事となる。以後、死の直前まで『労働運動研究』に多数の論文、記事を発表して、戦闘的労働運動の再生に尽くす。

一九八一(昭和五六)年九月統一労働者党結成、全国委員。

一九八四(昭和五九)年二月二十五目心筋梗塞のため三鷹中央病院で死去、七十六歳。
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二・三の思い出

浩さんの思い出

 

遊上孝一

 

 

 社会主義革新運動は一九六一(昭和三六)年に創立された。

 少数派運動の常として、その財政は火の車であった。そのころ、長谷川浩は古い友人から月二万円のカンパをうけて、必ず入れてくれた。それは恒常的に期待できるものとして、尊い財源であった。また、三一書房から出した「戦後日本労働運動史」の原稿料も全部出してくれた。また活動費の遅配に苦しんでいた内藤知周に年末に封筒をそっと手渡しているのをなん度かみた。彼の人柄がしのばれる思い出である。

 

 一九七四年の内藤知周の死から十年が経過した。内藤の追悼を機に、労働者党全国協議会は社会主義革新運動結成いらいの総括の必要のあることを確認した。そのためのたたき台ともいうべき素案づくりを、長谷川浩、内野壮児、わたくしの三人が担当することになった。

 われわれ三人はそれについて話しあった。意見は交換したが、各人の責任で執筆することになった。わたくしは社会主義革新運動結成時の反省を、内野が統一社会主義同盟との分裂から六三年の第三回全国総会までを、それ以後を長谷川浩が分担した。

 内野とわたくしは執筆して、それぞれ『労働運動研究』誌に発表したが、長谷川はかたくなに執筆しなかった。彼は元来、原稿執筆を気軽にひきうける性格の人であった。その彼が、三人の問の意見交換でも発言が少なく、最後まで執筆しようとはしなかった。

 社会主義革新運動の分裂。 一九六六年「共産主義者の結集と統一をめざす全国会議」が開催されたが、翌年の共産主義労働者党結成大会では「日本のこえ」派の不参加という結果となり、六九年には共労党自体が分裂した。

 このように、こと志とちがって、わたくしたちにとっては、もっとも暗い時期であった。

 長谷川にとって、この時期はやるせない、心身をすりへらすような時期だったのではなかったかとわたくしには思える。

 三人の会話のなかで、長谷川は「社革以来、われわれは平和運動を除けば、なんら大衆闘争にとりくんで来なかったのではないか?」と発言した。彼らしい意見であった。 「そういう観

点から書けよ」とうながした記憶がいま鮮やかによみがえってくる。

 労働運動研究所の創立は一九六九年秋であった。内藤知周も元気の時であった。

 研究所の趣意書の原案は長谷川が書いた。そのなかに日本共産党は第八回大会で変質したと断言した個所があった。

 彼はそう確信して離党したのは事実である。しかし、この断言は必ずしも参加全員の意見とみるのには無理があった。まして、それを趣意書に盛ることは、八回大会以前に党を離れた人(除名などの処分によるものも含む)、あるいはそれ以降に離れた人にも門戸を公平に開くという意味では適当でないという発言が出た。そして、その点は彼自身の手で修正された。

 しかし、長谷川自身は十五年近くを経ても、この主張を死にいたるまで確信していたと思う。

 「目本共産党の変質」の時期の確定はこれからも続く歴更のなかで検討すべきであり、 「変質」の内容についても必ずしも一致があるわけではない。

そのためには労働運動研究所内部だけでなく、ちがった価値観をもつ多様なグループや人びとの協力をえてのみ、なしうるのだとわたくしは考えていた。私的対話のなかで、彼の意見を貴重な一つとして尊重する態度をとりながら、討論を重ねたことがたびたびあった。

 しかし、彼は自説を断固としてゆずらなかった。

 われわれの仲間のうちで、長谷川ほど多様な意見をもつグループ、とくに青年たちと交流のあった人は少ないと思う。彼の自説へのかたくななまでの自信はちがった意見の人たちとの交流を妨げなかった。

 ここに、長谷川浩のすぐれたオルグ的性格があるようにわたくしには思える。

 何年か前に長谷川とわたくしの日本共産党本部勤務以来の親しい友人、永山正昭の奥さんが亡くなられた。その後の年賀状に、永山は「浩さんもあなたも元気で働けるのは夫人が健在だからのように思う」という意味のことを書いてきた。

 長谷川のお宅を訪ねたとき、この年賀状のことをわたくしが話したら、八重子夫人は、言下に、 「その通りですよ」とわが意を得たりとばかり断言された。

 わたくしは夫人のこの断言にたいし、彼がどう反応するか興味をもって見守ったが、彼は苦笑するばかりで一言もいわなかった。

 彼の長い活動を支えて下さったのは八重子夫人である。わたくしのこの意見に地下の長谷川は心からうなずいてくれるにちがいない。

 

 

 


 

貴 重 な 忠 告

村岡 到

 

 はじめて長谷川浩さんにお会いしたのは、一九七九年末であった。当時、私は第四インターの「世界革命」編集部にいて、私が発案した新企画「交流―異った視点から」という隔週のシリーズの第一回目に登場していただこうと考えて、おねがいのため、三鷹駅前の喫茶店でお会いした。 「『三里塚史観』からの脱却を」と題するその論文は、 「世界革命」の八○年の新年号に発表された。

 長谷川さんはこんな風に忠告している。

 「もし、 『革命は三里塚から始まる』といって、そこからのみ革命が発展すると考えるなら、それは少し行き過ぎだろう。……全体の観点に立って三里塚闘争の意義をも明らかにしないと『三里塚史観』ともいうような誤りに陥りはしないか」

 七八年の三・二六管制塔占拠闘争の歴史的勝利の主導者として、第四インターは三里塚闘争をたたかっていたが、五・二〇開港のあとの新しい局面での闘争方針が不確定なまま、ここにいわれるような傾向をかかえながら模索がつづいていた。この長谷川さんの見出しについても、いささか挑発的でもあり、編集部のなかでも議論があったが、私は、長谷川さんがつけた題だということで押しとおした。

 その後、私が第四インターをやめてから、『現代と展望』という小雑誌を発行し、その四号(八二年一月)に、広谷俊二さんとの対談「戦後階級闘争と日本共産党」をのせるため、お二人に話していただいたことがある。

 実はその前にもう一度、第四インターの幹部合宿で七九年の夏に、講師として遠くからお話をきいたことがあった。二・一ストの教訓を語ってくれた。一点の火の会合でも何回かお会いした。

 いずれの場合も、労働者の生産現場でのたたかいにこそ基軸をすえる必要があることを、じっくりと静かにさとすように話す語り口が印象的であった。

 階級闘争の鉄火場をくぐりぬけた体験にふまえて、若い活動家の不可避的な行き過ぎに忠言を与えてくれる数少ない貴重なオールドボルシェヴィキがまた一人なくなられたことは、きわめて残念なことである。

       (政治グループ稲妻)


長谷川浩さんを送る

津島 薫

 

労働運動研究 19847月 No.177

 

 津島さんの「思い出」は前々号の原稿〆切後に到着したため、遅ればせだが今号に掲載せざるえをなかった。執筆者ならびに読者のご諒解を願う。(編集部)

 

 一九五八年の日共七回大会以降、浩さんが中央委員会青年学生対策部長として、当時私も担当していた学生分野の指導をすることとなった。この時期に「学生対策」を担当するということは、まさに「火中の栗を拾う」に似たことであった。

 スターリン批判以後の革命陣営の混迷、とくに日共では「六全協」「七大会」により、五〇年以来の分裂・混乱を拾収したとはいえ、多くの未解決の問題、深刻な対立を内包していた。

 恰も、復活した日本帝国主義は鳩山岸内閣に象徴されるように、独占支配の確立と帝国主義軍事同盟の強力なパートナーを目指して反動攻勢を強めている時期であり、民主勢力も「小選挙区制」「砂川基地」「勤務評定」「警職法」「安保改定」或いは「原水禁」と大衆的な昂揚をもって応えていた時期である。

 学生運動も一時の沈滞を脱して、民主運動の一翼として華々しく活躍していた。しかし、運動の発展と裏腹に、分裂・崩潰の危機を内包しながら突っ走っていたのだ。広範な先進学生の小ブル的動揺の隙間に「ネオトロツキズム」が浸透し、「全学連」の指導部も、その諸派に握られており、運動はその指導に大きく振り回されていた。(それは主として「日共」の思想的・理論的混迷、政策・指導の無能に帰因するのだが)

 (註)学生運動の情況、「日共」からの離反、トロツキズムの浸透などについては「現代の学生運動」(新興出版社)に詳しい。

 砕いていえば、学生対策とは、七回大会など無視して、多数で「民族解放革命」をゴリ押しする「日中央」しかも安保闘争にも見られる、「如何に運動を発展させる」かを示すのではなく、「如何に行き過ぎを抑えるか」「何をさせてはならないか」ということのみに汲々としている指導と、片や「世界社会主義同時革命」を信奉し、大衆運動の昂揚の中で、学生の一画で帝国主義を崩潰してしまうかのように幻想と焦燥に駆られ、次々と一揆的行動に奔るトロツキスト諸派の指導する「全学連」の間に挟まれて学生運動を指導するのである。そして、学生党組織に蔓延しつつある小児病を喰い止め、建て直すことから始めなければならない。

 ところが、すでに「御年輩」とお見受けした浩さん、実にタフで精力的なのである。某大学の会議、新宿の喫茶店、はては下宿の会議まで、実に腰が軽い。そして良く、年齢など感じさせないうち解けた会話、討論、どんな困難にも絶えないユーモア。学生諸君の知っていたカリスマ的権威と事大主義の幹部とは全く無縁な指導者との出会いである。戦後「民主主義」世代とは誠にウマが合うのである。そして浩さんの一言「プロレタリアートは民主主義を武器として闘っている。しかし、民主主義はブルジョアジーの武器にもなる。俺は今まで民主主義のために闘ってきた。これから本当に革命のために闘うんだ」

 さて浩さんのタフネスと腰の軽いのは、大衆行動の時には尚さらである。安保闘争も大詰めの六〇年六月十日、岸のテコ入れに来るアイクの露払いとして、秘書ハガチーが来日した。「秘書の役割」を充分に果して貰うため大衆抗議の周到な準備がなされた。一月十六目、岸の渡米調印の際は、学生の大抗議団は大師橋上で阻止され、橋の下の間道を岸がすり抜けてしまった苦い経験があった。空港のすぐ際に指導部を設定、浩さんを中心に通信・レポを完備、学生部隊には明細な地図が配布された。「孫子の兵法」を地でいって、要の二つの橋(それしか空港の出入口はない)を抑えるために遮二無二突込むのだ。かくして、ハガチーは抗議団の「歓迎」の包囲のなか、ヘリで遁走するというアクロバットを演じるのである。

 ハガチーについては、その後、日共、日追放組、社会党の三派の被告団を抱え、困難で長い公判があるが、浩さんに負うことが非常に大きい。

最後まで青年らしい情熱と行動、革命的オプチミズムを持ち続けた浩さんを拍手で送る。

1958年 2月, 1 「前衛」、津島薫論文”最近における学生運動について″などがある(編集部)


追悼 飯島侑氏

  新たな社会を求め続けて    

 山中 明

       労働運動研究 19972

 

 飯島侑氏がさる一九六年二月二九日正午、急逝された。肺がんで一ヵ月ほど入院した 後だった。生れは二九年二月 七日で、享年六七歳は早すぎる。つい最近まで元気だった姿とその声が想い出され、その急逝が惜しまれてならない。

  戦後五〇余年を経るなかで 一貫して社会変革の未来をめざす運動の側にあり、またそ の先頭に立って活躍された。

敗戦後、軍国主義体制を突き 壊す民主化運動の全国的高揚のなかで、学園の民主化と旧体制打破の運動に自らを投入した。

 氏は海軍兵学校最後の生徒として敗戦を迎えた。江田島で広島の原爆を授業中に体験したと語っていた。侵略戦争の虚妄の正義が打ち砕かれたことを敗戦によって体験したのであろう、旧制水戸高校(現茨城大)に入学して学生運動に参加、教育大学(現筑波大)に進み、文学部自治会委員長として全学連の五〇年反レッド・パージ闘争を遂行した。戦後初の反動攻勢となったレッド・パージは労働運動を始めとして全分野に及んだ。学園での闘争は勝利し、学生運動における反帝平和の歴史的伝統が確立された。

 やがて朝鮮戦争が勃発し、反動攻勢が強まるなかで、国際共産主義運動の誤りが日本を直撃した。学生運動もその例外ではなく、「五一年綱領」の押し付けに対する抵抗が闘い抜かれた。当時、反戦学生同盟は反帝平和の全学連の伝統を守り、その先端を担っていた。全学連第五回大会(5262627)では反戦学生同盟系の代議員が一室に拉致されテロ、リンチを受ける事件」

が起こった。氏は同盟系代議員を指揮して、この暴挙に打ち勝った。六全協後、日共中央はこの事件で正式に自己批判した(『アカハタ』551226)

 氏は学生運動の再建と歴史的伝統の復活を、日共中央の青年学生対策部員として闘った。六〇年反安保闘争の最中、ハガチー米大統領補佐官の来日を、氏は六月一〇日、羽田空港で労働者沸学生デモを組織して迎え打った。ハガチーは、ヘリで脱出し、この事件は六・一五闘争と重なり、アイゼンハワー大統領の訪日は中止された。このことで氏は逮捕され、法廷闘争を闘い抜いた。  やがて国際社会主義陣営の分裂に際しては、眞の社会主 義の確立を求め、その情熱の火は絶えることがなかった。

 氏は津島薫の筆名で活躍し、 『資料戦後学生運動』三一書房、全八巻、一九七〇年)の編集にたずさわり、当時の学生運動を歴史的に位置付けるうえで大きな貢献をされた。また最後まで労働運動研究所の理事として、労働運動の新たな発展に寄与された。

読者だより

長谷川浩さんを悼む

 

うらやまし 長谷川の君 道に死ぬ 冷下の春の 紅梅の花(東京 水野つた)

 

.『労働運動研究』創刊以来の読者として、このたびの長谷川さんの悲報、本当に残念なことでした。長谷川さんとは一面識もないまま、ただ雑誌などで知るのみでしたが、深い悲しみでいっぱいです。きびしい時代を生きる者が受ける試練だと長谷川さんの胸中を思うとき、道の遠く険しさに胸のつまる思いです。小生、年はすでに五十をつとに越していますが、高等教育を受けたことのない身、エンヤラヤとこの年になっても、若い頃と変りばえもなく、気のむくままに、社会科学書を読んでいます。ようやくこの頃レーニン全集、マルクス・エンゲルス全集を読みたいと希うようになり、事情も可能になりました。

それでお願いですが、長谷川さんの残された蔵書にでもありましたら、お頒け(有料)ねがえないか一筆書いた次第です。      (愛知 瀬川力)

 

 長谷川浩さんの急遜を悼みます。二・一スト当時その後も引続き一九四七年末まで指導をいただいたことを感謝し、み霊の安からんことをお祈りします。

絶筆(三月号)を読ませていただきましたし、遺著も読ませていただきたいと思っています。

 『労働運動研究』の先月号(二月号)の送付がありませんでした。酉村桜東洋さんの「私の獄中記」を読んでいましたので在庫がありましたら送付して下さい。   (北九州市 加藤冬喜)

 

長谷川浩先生が逝去されはやご月余、いつも労研での論文で示唆されるものが多かった方でしたから、哀惜の思い一しおでした。心からお悔み申し上げます。戦前から共産主義運動一筋に闘ってこられた偉大な先駆者がまた一人消えました。

 同本の労働運動の再生を先生ほど痛切に願っておられた方はなかったのではないか、生産点

から革命の展望を築く視点を生涯貫かれた先生からは、日本の労働者階級は無限に学ぶ必要があると思います。

 先生の残された事業は未来に課題を残したまま放置されて良いはずはありません。だが、いかにも困難な課題となって私たちの前にあります。労働運動の階級的強化、社会主義の展望の確立と社会主義革命の問題。遺稿とみられる労研三月号での社会主義における民主主義の問題提起。ほんとうにこれからも書き続けて指導していただきたい方でした。 (大阪 渡辺立夫)

 

 長谷川浩さんの通夜や葬儀の様子を聞いて、晩年を「種蒔く人」に徹した浩さんのその種子は、すでに立派に五月の新緑のように爽やかに逞しく育っていることを知り深く感動しています。そこで私は、労働運動研究誌は今後とも浩さんの遺訓をうけつぎ、すすんでこの新鮮なカに依拠し、またお互いに協力して研鎭を積む揚となっていただきたいし、この若い活動家がさらにもっと新しい深紅の種を蒔くための道具となってほしいと念願しております。

     (広島 広兼主生)

 

言論の自由への挑戦

 岡山県議会が三月中旬に可決した拡声機等の暴騒音規制条例は、新聞で話題となったように表現の自由を犯す危険なものですが、条例成立までの経過をみると、自民党やそれと結託している地方官僚の政治的策謀が見事に功を奏したといえます。

 昨年夏の日教組大会では、右翼に対する警察の取締りは極めて緩く、住民の警察への不信感が募っていました。自民党や右派勢力は自分達への政治的批判の高まりを恐れ、右翼に対する住民感情を利用して、暴騒音規制の署名運動を始めました。推進者は警察署長・商工会・町村長といった地域の有力者であり、かれらは婦人会・消防団など当局の息のかかった諸組織をフルに利用して、三十三万人の署名を集めました。

・革新勢力の独壇場であった大衆的署名運動が右派勢力によって初めて成功したわけです。署名運動は、右翼の騒音はひどいという写真入りのビラをみせながら、 「音の暴力を取締る条例を制定しよう」という見出しが一行だけで、あとは署名欄しか載っていない用紙に署名させるやり方でした。右翼の規制と見せかけて、その実、左派の街頭宣伝活動をも規制しようという見え透いたものでしたが、この運動の期間、社会党は運動に協力し、共産党は沈黙同然でした。条例案が提示されてから、あわてて反対運動を始めましたが、時すでに遅し。革新政党の立ち遅れを見せつけられました。   (岡山 中村洗一)

 

 読者のみなさんのぺージを常設しょうと創刊以来何べんか着手しましたが、どうも永つづきしませんでした。こんどこそ三日坊主に終わらせない覚悟でおります。読者のみなさんのご協

力をお願いします。

        (編集部)


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